愛と憎しみ
アイブル= アイベスフェルトは動物行動学の立場から、母親と子どもの間に交わされる情緒的なコミュニケーション(基本的信頼の関係)が、子どもがのちに人間相互の連帯や愛のきずなを築くさいの生物学的な素地になっていると指摘している。母子間に育まれるこの基本的信頼の関係が以後の生物個体どうしの社会的な結びつきにとって原型(雛型)をなすというのである。母親の世話こそ、つまり親子の間の人間的な接触こそが、子どもの以後の社会的な経験を総じてはじめて可能にする前提となるのである。親と子の養育的な関係は社会的・対人的な関係のひとつのヴァリエーションなのではない。むしろ逆にそれこそがあらゆる社会的な関係の《根っこ》なのだ。
リスは秋になると冬の貯えとして木の実を隠す習性がある。木の実をくわえて木の根元へ降り、前足で地面を掻いて穴を掘り、そこへ木の実を入れて鼻でしっかり押しつけ、また前足で掘り上げた土をその上にかぶせるのである。この習性は赤ん坊リスを人工的に隔離して育てたばあいでも現われる。部屋の中であっても壁のそばで床を掻き、木の実を埋めるしぐさをするという。とくにリスは椅子や机の脚、壁など、垂直に立っている障害物のそばでそれをする。生まれつき垂直の対象物を好む結果、野外では木の根元や岩の下などにエサを埋めることになり、それによってまた埋めた実のありかを容易に見つけることもできるのだという。リスのこうした行動はあきらかに経験的に学習されたものではなく、あらかじめ遺伝的に組み込まれたプログラムにしたがって行なわれるものである。われわれはふつうこれを《本能行動》と呼んでいるが、すべての動物の行動を多少とも規定しているこうした生まれながらのメカニズムは、人間にもおなじように存在しているはずである。根底においてはヒトもやはり動物にちがいはないのだ。
アイブル= アイベスフェルトはこのことをとりわけ人間の攻撃と愛他の行動について示そうとする。ネコが喧嘩のときなど毛を逆立てて背中を山なりにし、相手を威嚇する姿勢をとるのをわれわれはよく見かけるが、威嚇のさい筋肉が収縮することによって腕や背中、肩の毛が立つことは、チンパンジーでも観察される。われわれ人間のばあいも、われわれはとうに体毛を失ってしまったが、毛の流れは毛を逆立てた場合とくに肩あたりが強調されるようになっているという。(とくに恐怖心にかられた時などわれわれは身体中の毛が総立ちになるような感じをもつ。「身の毛もよだつ」とか「鳥肌が立つ」というあの感じである。)これは相手にたいして自分を大きく見せようとする生物共通の戦術のあらわれだが、それは軍服の肩章や武士のかみしもなど、地位を誇示するための装束として生き残っているという。さらにわれわれ人間は、腹を立てたとき足を踏みならし犬歯をむき出しにするという点でも、類人猿と威嚇の動作を共有していると言うことができる。また種々のサルの雄は生殖器を威嚇のさいや群れの中での順位を表示するために使う。たとえばオナガザルでは群れがエサをあさっている時つねに数匹の雄サルが群れに背をむけて見張りをするが、そのさいかれらは目立つ色の生殖器を誇示する。そしてよその仲間が近づくとペニスが勃起するという。これはもともと相手に馬乗りになって自分の優位を示す動作から派生したものと考えられるが、人間においてもさまざまの集団でのイニシエーションやお守り、人形などに同種の行動が儀式化された姿で残っている。人が他の人間と出会いがしらにするあいさつやお辞儀なども、ある意味でこうした生物の個体の間の関係調整が《儀式化》されたものだというのである。
砂漠にすむある昆虫は乾期にかたまりになって乾燥から身を守るし、南極の皇帝ペンギンは身をよせあって体温の放出を防ぎ、厳しい冬を乗り切る。魚や鳥の類いはたいてい群れをなすが、それは捕食魚や猛禽の攻撃から身を守るためであるという。それによって自分たちを大きく見せ、また捕食者が特定の一匹に狙いをさだめることができなくするのである。カラスは集団で敵を攻撃するし、またオオカミの群れは分担して獲物を狩る。このように群れをなして棲むことには大きな(とりわけ防衛上の)利点がある。だが多くの生物が、こうして仲間と群れをつくると同時に同種の仲間にたいする攻撃衝動をもつというたがいに矛盾する傾向をかかえていることは珍しくない。たとえば鳥類は一定の空間領域に境界線を引いて自分の《なわばり》を主張し、侵入してくる同種の仲間を追いはらう。あまり近接して巣が作られ、雛育てがおこなわれるとすれば生存の維持にとって脅威となる。同種の仲間がおなじ種類のエサを求めて競合することになるからである。種内の攻撃はこのように個体間の距離をたもち、同時に同種の動物を広い空間に分布させるはたらきをもっている。また攻撃行動は、繁殖期に雄どうしが雌を争って闘うさいにも発揮される。それによってより強く健康な雄が生殖のために選択される、という「淘汰」の役目ももっているのである。だが、こうした優勢な個体を淘汰するための闘いによって、同種の若い雄が多く傷つき、死ぬことになってもまたその種属は存亡の危機にさらされることになる。攻撃の行動そのものの中に矛盾する二つの淘汰の圧力がはたらくのである。
これを動物たちはどのようにして解決しているのだろうか?ここでも《儀式化》がはたらいているのである。たとえば鋭い歯をもつウミトカゲは繁殖期には雌を争うが、かれらの闘いは頭を突きあわせて押しあい、相手を自分のなわばりから外に押し出すだけであり、けっして噛んだりはしない。敗者が勝者の前に這いつくばるとそれで闘いはおわるのである。ガラガラヘビも噛みあうことなしに身体をもたげて頭をぶつけあい、倒れた方が負けとなる。イヌやオオカミは交互に噛みあう闘いをするが、どちらかが勝ち目がないとわかると命からがら逃げ出すか、勝者にたいして服従の行動をとるのである。勝者に致命的な弱点である首すじをさらけ出したり、這いつくばったり、さらには仰向けになって尿を少々もらし、相手になめてもらうのである。これはエサをねだる服従姿勢とともに「母親にたいして子どもがとる行動」とおなじであって、子どもらしいアピールによってそれ以上の攻撃が抑制されてしまうというのである。またノロジカは大きな枝分かれした角を突きあわせて押しあうが、この角も相手を傷つけないためのものだという。かれらが本当の敵にたいするばあいは、強力な蹴りをもつ後ろ足が武器となるからである。脊椎動物にはこのような攻撃抑制のしくみを備えていないものもあるが、それは危険な武器をもっていないか、逃走能力がひじょうに優れていてすぐに相手から遠ざかることができるからである。こうした攻撃衝動は仲間から隔離して育てられた生き物にもあらわれる。つまり、それは生まれつきプログラムされたものなのである。
人間においてもこうした生得的な攻撃衝動が存在するとアイブル= アイベスフェルトは考える。なわばり争いや自己の生活空間を侵されることへの敵意(乗物の席や食堂、図書館などで他人にはみだされ、自分が占有する空間を侵害されることがどれほど不快な経験か、だれしも覚えはあるだろう。)などがそれを裏づけているという。動物たちが一定の闘争の規則を守ったり攻撃を抑制するしくみをもったりするすることで相手を殺すことが妨げられているように、人間にもそうした儀式化が存在する。(アイブル= アイベスフェルトの師であるK.ローレンツ博士は多くの動物の求愛行動が《儀式化》された攻撃のしぐさであるという解釈から、こうした同種内の攻撃が仲間の結びつきの基礎であるという見方をとっている。)服従するとき人は身を低くする。ひざまづいたり、坐ったり、お辞儀をしたりするのである。また相手が泣くこと、微笑むことはわれわれを「武装解除」させる効果をもっている。
これらは多様な文化にひろく見られるものであり、それゆえ文化的なものというよりは生まれつき人間に備わったものである。ところが人間は武器を人工的につくり出すことによって、こうした攻撃抑制のメカニズムがはたらく余地を払拭してしまった。手斧ですら一撃で相手を殺してしまうために、敗者が屈伏の信号を発する暇がないのである。鉄砲や爆弾は遠隔的で純粋に技術的な操作によって多くの人間を一瞬にして殺すことができる。(ぶっそうな話だが、人間ひとりを素手で殺すには物理的・精神的にどれほど凄まじいエネルギーが要るだろう?だがピストルの引き金ひとつひくだけなら何の労力もいらない。われわれはたんなる過失で他人を殺傷してしまうことができるのだ。)引き金やボタンのひと押しで済んでしまうことが、われわれに生まれつき備わっている攻撃衝動の抑制のしくみを無効力なものにしてしまったのだというのである。
他方で動物には、同種間の連帯や愛着の結びつきを保証するようなメカニズムが生まれながらに備わっている、とアイブル= アイベスフェルトは見る。そしてそれは育児行動であるとかれは考える。そもそも動物の群れや集団は子どもや家族を共同で防御し、育児を行なうために形成された。つまりそれは家族が拡大されたものとみることができるのである。さらに先のオオカミの例にもあるとおり、大人の動物は相手をなだめ、その攻撃を抑制する時に子どもらしい行動を利用するのである。「じゃれる」というイヌの友好的な動作は母親の乳にすがりつく動作から派生したものだし、いくつかの動物は子どもがするように鼻をすり寄せたり、お乳を吸う真似をしたりしてあいさつをかわす。また求愛行動のさいに子どもの鳴き声に似た声を出す動物が幾種類かいるし、鳥類の求愛行動は子どもが親にエサをねだる時の動作が儀式化されたものであることが多いという。求愛のさいに相手から本当にエサをもらう場合も多い。サルに代表される「毛づくろい(グルーミング)」は社会的なきずなの強化に役立つが、これも元をただせば母親が子どもの身体をきれいにしてやる行動からの派生物である。こうして子どもの行動様式がそのまま大人の動物の正常な行動様式に取り入れられ、相手の気持ちをなだめ、さらに、求愛や社会的な連帯といった同種の動物間のきずなを形成するための役割をもっているというのである。人間においてもキスや抱擁、あるいは髪を撫でたり、胸に掻きよせるしぐさ、じゃれあいや甘え合い、疑似的な幼児言葉の使用等々、とりわけ男女の愛情の表現やしぐさにみられる親愛の動作は母親と子どもの行動をほうふつとさせるものがある。それらもやはり「育児行動」からの派生物なのだとアイブル= アイベスフェルトは言う。
「今までに述べたことからわかるように、キスとか愛撫とかいう明らかに性的と見られる行動様式も、その多くはほんらいは育児の動作に起源をもっている。それについて思い起こすのは、フロイトがかつて驚くべき逆転した解釈を主張したことである。母親は彼女が自分の子どもに性的な行動様式をたっぷりふりまいてやっていることに気づいたら、さぞびっくりすることだろうとかれは述べている。この場合フロイトはものごとをまったく逆に読んでしまったのだ。母親は自分の子どもを育児の動作で世話している。そして彼女の夫にたいしてもその動作でこびるのだ。」(アイブル= アイベスフェルト 日高他訳『愛と憎しみ』みすず書房 214頁)
また微笑みも、われわれ大人のぎすぎすした雰囲気を即座になだめてくれる強力な沈静作用をもっているが、これも母子間のきずなから派生したものだという。
われわれは人間の赤ん坊を見ると「かわいらしい」と感じ、抱き上げて愛撫したいという有無を言わせぬ衝動に駆られる。それはじっさい《衝動》なのだとアイブル= アイベスフェルトは言う。丸い頬、広くはりだした額、顔の割に大きい眼、小さい口、短い四肢と大きな頭、というわれわれ大人にくらべてアンバランスでふっくらした体形… こうした特徴がわれわれの愛着を解発する標識になっていることは、われわれが同様にかわいいと感じる人形やぬいぐるみ、デフォルメされた漫画の主人公や動物の子どもが皆そうした特徴をはっきりと示しているという事実から容易に推測できる。また子どもに加えられる暴行や殺戮は、大人のばあいとは比較にならないほどわれわれの心を打ちひしぎ、激昂させる。(かつては金目当てに幼い子どもを誘拐し殺害する事件がしばしば起こったが、最近は大人の誘拐が《はやり》らしい。われわれは、いたいけな子どもをなんてひどい奴だと心底いきどおったものだが、大人の誘拐犯にたいしてはそうした憤りをさほど感じないから不思議だ。また観客の涙をさそういわゆる《泣かせ》の映画の常套手段は子どもの不幸を描くことだという。何につけ子どもという存在はわれわれ大人の感情を増幅する作用をもつものらしい。)はんたいに子どもは、そこにいるだけでわれわれの攻撃心を殺いでしまう。これは子どもに対するわれわれの愛着がいかに根深いものかを雄弁に物語っているというのである。
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先述したK.ローレンツは「子ども図式」という言葉でこうした事態を説明している。たとえば飼いネコの前でそこらで拾った鳥の羽を床にこすってみせると、ネコはとたんに、獲物をねらう時にみせるあの身体をぺしゃんこにして前足をつっぱる攻撃態勢に入る。しかも何度やってもおなじ反応をくりかえす。ネコはべつに遊んでいるわけではない。相手が獲物でないのはわかっているのだろうが、否が応でもそうせざるをえなくなる。それは本能的にプログラムされた有無を言わせぬ行動なのだ。おなじことはおしなべて動物の求愛や交尾、攻撃や捕食の行動についてもいえる。総じて動物の本能行動は、外界の特定の部分的な標識がきっかけとなってその生物の内部に蓄積した衝動エネルギーが、いわばその出口の《掛け金がはずされる》ことによってひき起こされる。こうした本能行動のメカニズムをローレンツは「解発機構」と名づけ、また、引き金になる刺激を「解発因」と呼んだ。上の例では鳥の羽のかさかさいう音がネコの捕食行動を《解発した》のである。解発因となるものは総じて相手の身体部位の目立った色彩や形状、形状や運動の対称性やリズミカルな規則性など、ようするに自然界ではまれで、ありそうもないものという性質をそなえているという。
さて、根本において人間も動物である以上、そうした解発機構をもっている。それは上でアイブル= アイベスフェルトが論証したとおりだが、われわれが子どもに対してつよい愛着や世話焼きの欲求を感じるのもけっきょくはおなじ本能行動なのだ、とローレンツは言う。それは親たちが確実に子育てをおこなうようにと自然がほどこした策略なのであり、幼い子どもに特徴的なアンバランスな容姿がその衝動を解発するのである。ただし人間は永い間の《自己家畜化》によって固定した本能行動を大きく解体させてしまった。それゆえにこの「子ども図式」はおなじ人間なかまの子どもだけに限定されず、異種の動物の子どもにまで派生し、拡散してはたらくようになっているのだという。(われわれが子イヌや子ネコなどに感じるつよい愛着はここに由来する。またローレンツによれば、われわれがもつ《美的な感覚》も、こうして固定的なチャンネルづけを解除された本能行動のエネルギーが、外の世界の目立った、非蓋然的な印象によって「解発」され、本能の解体のために特定の行動に消費されず、ゆきばのなくなったそのエネルギーがつよい情緒的な負荷となるために生じるものだという。)
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以上のようにアイブル= アイベスフェルトは、われわれは《子ども》に対して生まれながらに備わった愛着の解発機構をもっているのであり、それがわれわれの生物学的な攻撃衝動を抑制すると同時に、生物学的な種属としての人間どうしの間に連帯のきずなを築くさいの原型になっている、と主張するのである。他の生物の場合とおなじく人間にとっても社会的な連帯や友好のきずなは育児行動からの派生物なのである。そしてとくに人間のばあい、この原点となる育児行動によって個体のうちに育まれるものを、アイブル=
アイベスフェルトは(エリクソンに拠りながら)「基本的信頼」と呼んでいる。
かれは総括してつぎのように語る。
「人間の行動をわれわれが生物学的に調査した結果まず明らかになったことは、われわれに生まれつきそなわった攻撃の衝動には、必ずそれとほんらい対立する衝動があるということである。これの助けによってわれわれは仲間ときずなを結び、それを保つことができる。そればかりではない。群れをなそうとする強力な衝動が生まれつき備わっているのだ。集団を結びつけるこうしたしくみは系統史的にはひじょうに古いものであって、このしくみが育児行動の形成と結び合って発達したということにはひじょうに多くの証明がある。この《発明》によって鳥類と哺乳類とはたがいに別個に相互援助の能力を獲得したのであり、それと同時に、生存のための闘争を一緒になって闘いあう利他的なきずなを形づくる能力をも獲得したのである。相互援助ということは、それと同時に高等な生物の進化においていよいよ重要な役割を得てゆく。家族の結びつきの中から大家族が生じ、群れが生じ、最後には哺乳類にも人間にも見られる無名の閉じた結びつきが生じてくる。結びつきの手段は根底においてはどの場合でもおなじであり、それらの手段はその起源にしたがえば本質的には母と子とを結びつける行動様式のレパートリーから導き出されている。母と子との関係は系統史的なものであり、そしてまたそれぞれの個体の発育の中であらゆる社会生活の結晶核をなしている。… われわれ人間は、のちにわれわれの群れをなす基本姿勢を開化させる基盤となる基本的信頼を、個別的な母と子の関係の上に発達させ、それによって一般的に社会的な参与をおこなう能力を発達させるのである。」(上掲書、345頁以下)
このように親子の間で培われた人間的経験が、子どもの以後の対人的・社会的な接触と交流にとっての原型となるのである。文字どおりそれは子どもにとっての《原体験》となるのだ。
さらにまた上の議論は倫理や道徳といわれるものの基礎が人間に(いや、生き物すべてに)生まれつき備わる生物としての資質にその基礎をもつことをも推測させる。かつてホッブスは倫理的な無政府状態をさして「万人が万人にとって狼であるような」という表現をもちいたが、あるいはこんちにでもわれわれは倫理性を失った人間のことを「野獣のような」と形容するが、事実はそうではない。かれらは無用な殺戮を予防するための手だてを本能的なメカニズムとしてしっかりと備えているのであって、むしろわれわれ人間こそが自然の知恵を見失っているのである。狼たちに言語があればかれらはきっと無謀な殺戮を「人間のような」と形容するにちがいない。
…最近の映画やテレビのアクションもの、ヴァイオレンスものはますます過激になる一方のようだが、あれにはどんな理由があるのだろうか?セーラー服の女学生が機関銃を連射しおわってやおら「快感!」と呟く場面を何かで見たが、「理由」の説明としてはあれがいちばんピッタリくるように思う。ひょっとするとまったく個人的な思い込みにすぎないかもしれないが、誰かをおもいっきりぶん殴ってやりたい、力任せに暴れまわって何かをメチャメチャに壊してみたい、といった潜在的な願望はだれにでも多少はあるのではなかろうか?それができればさぞ胸がスッとして爽快だろう…と。大昔、われわれがまだ毛皮か何かを腰に巻いて野山を駆け巡っていた頃には、おそらくわれわれはカッとくれば即座に取っ組み合いのケンカになったであろうし、怒ればひと一人ぐらい殺しかねなかったにちがいない。だが、われわれは文明化する過程で、このように情緒を直接に行動として表出することを我慢するようになった。われわれはふつう心の奥底では殺してやりたいと思ったり、それこそ腹わたが煮くり返ったりしていても、それをじかに口走ったり、表情にあらわしたりはしない。ましてやそれを実行などはしない。内心の気持ちは純粋に「気持ち」として処理してしまうのがつねである。つまり文明というものは人間の行動を内面化させ、直接の行動を情緒によって置き換えるという方向にはたらいてきたと言えるだろう。それが「文明化」というものである。だが、われわれは本当に文明化してきたのだろうか?直接のはけ口を塞がれた攻撃衝動が、ちょうど密閉したヤカンを火にかけると中の蒸気圧が爆発寸前にまで上がってゆくように、人間の中に徐々に鬱積してゆくのではないだろうか?だとすれば暴発しないように圧力を抜いてやらなければならない。ヤカンのように空気穴が必要になってくる。鬱積した攻撃の衝動エネルギーを別の、無害な方向に向け直し、発散させるための人工的な安全装置が必要になってくるのである。映画やテレビのアクションものやヴァイオレンスものはそうした一種の《安全弁》だとは言えないだろうか?
ここでわれわれは、人間の攻撃衝動について動物行動学の立場から発言したK.ローレンツをふたたび思い起こす。ローレンツは言う。アイブル= アイベスフェルトが主張するように、同種の仲間に対する攻撃衝動は生まれながらにすべての動物に備わっているが、人間という動物のばあいには文明化によって(自然の掟に逆らって)群居の習慣を身につけたために、そうした攻撃衝動を人為的に抑圧せざるを得なくなった。しかし、そうして抑圧された衝動ははけ口のないままに人間たちの内に鬱積している。それゆえにまた人間のばあいには、自然の状態においてはほんらい破壊的ではないはずの(つまりたんに相手を遠ざけるだけの)攻撃衝動が抑制力を失って破壊的、殺人的なものになっていると。
ここでわれわれは「逆説」に直面して当惑する。すなわち、文明化は人間を野蛮にするのである。
母性の喪失
アメリカの心理学者H.ハーロウは、母性というものに関してある興味深い実験をおこなった。かれははじめサルの知的活動に関するある実験研究に従事していたが、その時に実験室で育てる赤ん坊ザルの多くが、オリの床に敷いた毛布や重ねたガーゼに強い愛着を示すことに気がついた。汚れたのでその敷物をはずそうとすると、赤ん坊ザルはそれにしがみつき、激しいかんしゃくを起こすのである。人間の子どももぬいぐるみなどのソフトなものに同じような執着をみせるが、こうした赤ん坊がもっている身体的な接触への欲求は母親への愛着を説明する主要因となるのではないか、とハーロウは考えたのである。何と言っても、自然な状態では母親の身体に一日中しがみついて過ごすことが、赤ん坊ザルにとっては普通だからである。
母親によせる赤ん坊の愛着は、何よりまず母親が食べ物の必要を満たしてくれるという生物学的な基本事実に由来するように思われるし、また精神分析学派の人々は、それをとりわけ母親の乳房に対する性的な欲望に由来すると主張する。そこでハーロウはふたつの母親ザルの模型を作って、身体的なふれあいがどれほどの重要さをもつのかをたしかめる実験をおこなった。そのひとつは木製であり、それをゴムとタオルとで覆ってソフトな感触にし、かつ、中に電灯を点けてその熱で木型が暖まるようにした。もうひとつは形はおなじだが金網でつくられ、接触による慰めは得られないようにした。ただし両方の模型ともに乳房がつけられた。そして生まれて間もないアカゲザルの赤ん坊たちを、ほんらいの母親から引き離して、これら「バスタオルの母親」と「金網の母親」とが置かれた部屋にいれたのである。そしてこの実験の結果は、と言えば、赤ん坊ザルたちは圧倒的に「バスタオルの母親」のほうを好んだのであり、一日の大部分をかれらはこの《代理母》にしがみつくことで過ごしたのである。しかも部屋によっては「バスタオルの母親」の方しか乳房からミルクを出さないところもあれば、「金網の母親」しかミルクを出さないところもあったが、驚いたことに赤ん坊ザルたちは「金網の母親」の乳房のほうからしかミルクが出ない場合でも、やはりほとんどの時間を「バスタオルの母親」にすがりついて過ごしたのだ。赤ん坊ザルは飢えから愛情をおぼえるのではなく、愛に飢えるのである。
この、一見して何やらこじつけめいた(というのは、これはあまりに解釈をおこなう人間の側の主観的・擬人的な思い入れがすぎるとも取れそうだからである。サルに対して《愛情》という概念を用いることがそもそも妥当だろうか?)結論を補強するようなハーロウのもうひとつの実験がある。かれは、生後の数ケ月を孤立状態で育った雌ザルの、母親としての行動を観察する計画を立てた。(ところで、厄介なことにこうした雌ザルたちは第一に性的に無知であり、自然のなりゆきにまかせていては、子どもを産むことは事実上不可能であった。彼女らには先ずもって対人(サル?)的、社会的な経験が欠けていたのである。すなわち、生後の数ケ月を孤立状態で、つまり母性的な接触なしで育った子ザルは、ずうっと後までなかま同志との正常な社会的コミュニケーションを行なうことができない。あるいはそれに支障をきたすのである。母性的な世話や交わりというものが何よりも先ず赤ん坊にとって社会的な経験の《原型》になるという点では、ヒトでもサルでも変わりはないらしい。)
ともかく、孤立状態で育ったメスたちが初めて出産した時、赤ん坊を放置し、無視するのがつねであった。母親は子ザルがきわめてしつこく求める場合だけ、触れ合いによる愛撫を少しばかり、ときたま与えたにすぎない。自分の赤ん坊ザルを踏みつけたり、床に顔を押しつけたりする母親が少なくなかったし、また母親が赤ん坊の手足の指を噛みちぎったことも一度ならずあるという。きわめつけは自分の赤ん坊の頭を口に突っ込んで噛み砕いてしまった母ザルである。
この実験から推測されるのは、自分の母親との愛情に満ちた正常な関係のなかで育たなかったサルは、母親としてわが子を愛することができないということである。どうも《母性愛》は無条件の効力をもっているようには思われない。俗に言う《母性本能》はどうも本能的であるとは言えないようなのだ。むしろ真実は「愛されたことのない者は、愛することを知らない」という格言のうちにある。
ところで(先ほども示唆したことだが)ハーロウが行なったような実験研究はたしかに強くわれわれの興味を魅くものではあるが、しかし、だからと言ってその結果をそのまま人間に当てはめることは許されるものだろうか?先ずもって、サルについて上のように《母性的な愛》だの《社会的経験》だのということがどこまで言えるものだろうか。それは(肌寒いからといって自分の愛犬に無理やり服を着せて散歩をさせる人間の自分勝手な思い込みとある意味でちがわない)人間のたんなる感情移入にすぎないのではなかろうか。いずれ心理学において動物実験がくりかえされるかぎり、この疑念が完全に晴れるとは思えないが、倫理的な理由から人間自身については実験をおこなえない場合もある。(上の場合がまさにこれに当たる。一体誰が人間の赤ん坊を全くの世話なしで放置する実験に賛同し得るだろう?)学習心理学における有名な「条件づけ理論」のように無批判にネズミの知能をヒトの知能のしくみと同列化してしまう類いの憶測には十分警戒せねばならないとしても、上の実験結果がおなじ高等哺乳類のなかまとして人間の場合の《母性》についても何がしか考えるヒントをあたえてくれないとは言い切れまい。
すなわち、われわれは次のように推測することができよう。母親という(しかも、子どもが出会う最初の)人間なかまとの交わりを通して、子どもは《人間らしさ》を媒介され、それを学習し、習得するのだと。
たとえば、幼児が遊んでいる最中にときおり自分の母親がそばにいることを確かめ、その姿が見えなくなると不安に駆られて泣き出したりするのを、われわれは経験から知っている。それがなじみのない場所である場合には、こうした傾向はなおさらつよまる。これは何も遊びにかぎったことではなく、総じて《安心》が与えられない時、子どもは世界と《正常な》関係をむすぶことができない。いわば母性的な「安心さ」の空間によってはじめて、そこをいわば《拠点》として子どもは世界へと踏み出してゆくことができる。
(エインスワースという心理学者は、幼児にとって母親は「安全の基地」の役割を果たすと主張している。)かれらにとって世界は母親の存在によってはじめて点灯される。母親なしには文字どおり世界は闇なのだ。それゆえに子どもがもとめる《安心》は、たんに物理的な脅威にたいする安全への欲求から発しているというより、もっと根源的な性質のものである。しかも母親は、たんに子どもがこの世界に生まれ落ちて最初に出会う人間として、子どもに社会経験の原型をあたえるというだけでなく、むしろ総じてはじめて子どもに世界を開示し、媒介する存在なのである。